情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市太白区柳生字北78
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

263 柳生紙 小西利兵衛(こにしりへえ)

小西利兵衛(「目で見る仙台の歴史」より)
小西利兵衛
(「目で見る仙台の歴史」より)

 宮城県では白石の和紙が有名ですが、柳生でも和紙が作られているのを知っていますか。佐藤ふみえさんが、楮(こうぞ)や三叉(みつまた)から丁寧にすいて和紙をつくっているのです。
 この柳生和紙を現在まで残した功労者が、広瀬川の川向う河原町の小西利兵衛でした。

小西利兵衛頌徳碑(柳生寺門前)
小西利兵衛頌徳碑
(柳生寺門前)

 柳生の和紙が有名になったのは江戸時代からであった。伊達政宗が伊達郡(現福島県)茂庭村から四人の紙漉職人を柳生に招き、豊富な水と楮・三叉を利用した和紙作りをさせたことに始まる。従って、柳生は仙台領内製紙発祥の地になっている。
 江戸期には四人以外に四十八戸が柳生で製紙業を営み、和紙は「柳生紙」として、仙台のみならず他藩にもその名声を博した。
 この柳生紙を商品産物としてさらに改良したのが河原町の商人、小西利兵衛であった。文政から天保年間にかけて、利兵衛は傘紙の改良や元結の紙職人を信州から招いて生産を始めたり、盆提灯用の染美濃紙の製造にも尽力している。利兵衛は紙のほかに線香、地織木綿、米作、味噌、醤油、酒、酢などについても改良意見を持っていた。
 彼は常に「国産」の品質改良に努力し、生涯を通して藩内の生産物の改良、農民や明治維新による武士零落後の救済などに力を尽くし、あわせて自家の商業的立場を優位に保たせていた。

 柳生紙の生産は明治・大正まで続き、明治三十年(一八九七)には三百八十三戸、大正八年(一九一九)には三百二十二戸あったが、昭和二十六年(一九五一)には七十九戸となり、現在は一軒だけになっている。

 柳生村では、小西利兵衛の功績を称えて、慶応三年(一八六七)柳生雷神社境内に「小西利兵衛頌徳碑」を建てた。頌徳碑は明治四十二年(一九〇九)、柳生寺門前に移されている。

   


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