情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市太白区門前町3−22
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

256 郡山用水 小倉撫松(おぐらぶしょう)(郡山)

現在の郡山堀
現在の郡山堀

 太白区といえば名取川と広瀬川にはさまれたエリア。二つの川と生活のかかわりはことのほか深いものがあります。堤をつくり、堀を引き、水を治め、利用するための先人の努力があってはじめて、今のような穏やかで、美しい流れがつくられてきたのです。
 そんな先人の一人が、郡山堀を築いた小倉撫松です。大年寺惣門の右手に大槻文彦撰文による「撫松小倉翁道徳碑」が立っています。
 小倉撫松は文化七年(一八一〇)、名取郡長町に生まれる。名は三五郎、撫松と号した。家は代々一郡一軒の酒造を営んでいた。
 嘉永二年(一八四八)ごろ、名取郡下に天然痘らしい病気が発生した。三五郎は、さっそくその予防法について研究して種痘を奨励し、家人の異議を排して先ず自分の子供や孫に種痘を試みた。その効果を信じて、種痘は広く藩内に普及している。
 三五郎は、嘉永四年(一八五一)名取郡郡山村肝入り仮役を命ぜられる。この頃、対岸の六つの村では広瀬川に堰を築いて六郷方面に灌漑していた。三五郎は郡山村でも用水が利用できるように訴え続け、郡山掘を完成させ郡山村を旱魃から救っている。
 文久元年(一八六一)、名取北方の大肝入りを命ぜられて名字帯刀・麻上下・鞍馬を許され、公共事業として茶の栽培や新田開発にも力を尽くす。また、郡備に籾二百俵を寄付したり、旱魃の際には貧民へ銭二十貫文、玄米十俵、小麦五十俵を供出、藩校の養賢堂へ金占領献納しその賞として軍用酒屋として御備酒百石、売酒百五十石の醸造を許された。

撫松小倉翁遺徳碑(大年寺)
撫松小倉翁遺徳碑(大年寺)

  明治五年(一八七二)六十三歳で病没。明治二十六年十月、前仙台藩知事伊達宗基篆額、大槻文彦撰文による「撫松小倉翁遺徳碑」が建てられた。
 なお、大正期の仙台の代表的歌人小倉茗園は三五郎の孫長太郎である。また、「小倉四兄弟」と言われた、小倉進平(国文学者。歌人)、小倉博(言語学者。『仙台方言音韻考』ほか)、小倉強(建築学者、仙台城の研究、瑞鳳殿の再建など)、小倉謙(植物学者)は三五郎の曾孫である。

   


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