情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市太白区茂庭
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

247 秋保電鉄運転手 桜井惣治郎の話

桜井惣治郎
桜井惣治郎

 明治三十五年(一九〇二)生まれの茂庭の桜井惣治郎は、馬車鉄道時代から秋保街道に生きた一人であった。

 十七歳の時、秋保石材軌道株式会社に勤め、「トテ馬車」といわれた馬車鉄道で秋保石の運搬に携わった。秋保石は一台の台車(無がい車)を一頭で引くのである。その量は一回に「五十才」(石の単位)、重さにすれば二、三トン前後で、今なら小さなトラック一台分に相当する輸送力であったようだ。
 馬車鉄道は秋保湯元を出発し、松場、赤石、茂庭、太白山、旗立、鈎取、富沢と停まって、長町まで三時間もかかったという。毎日八台から十台もの馬車が列を作って重い秋保石を運んでいく様は壮観でさえあったようだ。途中、上り下りの多い秋保軌道は、馬には大変な重労働で坂道を上れない馬もいたそうだ。

 大正十四年、時代の進歩は馬車鉄道から電車へと移行、馬車引きたちの人生をかえていった。まさに晴天のへきれきという惣治郎は「馬車がなくなるなら電車の運転をすればいい」とばかり、東京に出向き陸運局で電車の運転免許を取得したのだ。
 そんな前向きな姿勢が買われ、大正十四年(一九二五)六月十四日、花火の音が町中に響いて紙吹雪が舞う中を、惣治郎は秋保電鉄の一番電車の運転手という一世一代の晴れの舞台を踏んだのである。

 昭和十五年(一九四〇)惣治郎は、車両技術の腕を見込まれ仙台市交通局へと移ることになった。昭和三十六年(一九六一)三月二十日、六十歳で定年退職したが、秋保鉄道もこの年の五月、三十七年の歴史に幕を閉じている。

 秋保電鉄は今は昔。惣治郎の脳裏に運転席から見えた旗立の納溜池に浮かぶ舟、太白山の生出森八幡神社例祭の賑わい、「トテプカー」と吹くトテ馬車のラッパの音など一コマ一コマが鮮明に浮かんだに違いない。

   


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