情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市太白区茂庭字町尻47
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

243 生出村初代村長 長尾四郎右衛門(ながおしろうえもん)

長尾四郎右衛門(タウン誌「おいで」より)
長尾四郎右衛門
(タウン誌「おいで」より)

 明治二十二年(一八八九)全国に市町村制が施行され、江戸時代以来の茂庭村、坪沼村が一緒になって生出村が誕生しました。その頃の生出村の推定戸数二六〇戸、人口は二四〇〇人。大部分は山林で田畑が少なく、生産する米、麦、雑穀類も自家消費にあてられるだけでした。
 この村を全国三模範村として表彰されるほどの村にしたのが、初代村長・長尾四郎右衛門です。



長尾四郎右衛門遺徳碑(生出市民センター前)
長尾四郎右衛門遺徳碑
(生出市民センター前)

 長尾四郎右衛門は、先ず養蚕の普及に力を入れた。県より巡回の技術指導者を呼び、蚕の飼育技術指導を受けさせた結果、思いのほか良好であった。彼は仙台の富商であった佐々木重兵衛に相談して千円の大金を借り、その金で桑の株を買い入れ村人に無利子で貸し与え養蚕の試みをさらに広めていった。
 次に養蚕業を本格的に導入した多角的な農業経営への転換を図り、養蚕伝習所の設置、優秀農家継承者の県立農学校養蚕科への村費入学、村営製糸工場設立、工場経営の見直しと販売ルートの確保などの施策を次々に実行に移した。
 最初は不満の多かった村民も副収入の道が開け収益が増えるようになるとともに納得。明治の末には桑畑百三十九町歩、養蚕戸数二百八十戸(全戸数の九割)にまで成長した。

 また、教育機関の整備充実による人材育成、村民の意識改革にも取り組んだ。生出村発展のもう一人の立役者であった生出小学校校長の茂庭秀福と力を合わせて「行道会」を結成し、取り組みの基盤とした。

 そのほかにも耕地整理、土木事業の展開、造林事業など、村の基本財産の充実にも実績があがり、明治三十三年(一九〇〇)生出村は、静岡県稲取村、千葉県源村とともに、全国三模範村として内務省から表彰された。

 その遺徳碑が生出市民センター前に建っている。

   


前の項目へ 次の項目へ