情報提供: ディスカバーたいはく3号
 所在地: 仙台市青葉区一番町1丁目13
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

228 名剣士「松林蝙也斎(まつばやしへんやさい)」

 今から二十年ほど前まで、片平の東北大学正門のあたりを「道場小路」と呼んでいた。三百五十年ばかりむかし、松林左馬助の武芸道場が開かれた町だからだという。

 松林左馬助は、信州(長野県)の人で、十五のときから浅間山の天狗を相手に武術のはげしい修業をしていた。剣術ばかりでなく槍やなぎなたの術にもすぐれ、あみ出した夢想願流は、世にもめずらしい武道として有名になった。「飛んでいるハエの首を切りおとす達人」とか「川端の柳の枝が水の上に落ちるまでに十三個にもこま切りする名人」と、それはそれは評判が高かった。

 仙台藩の二代城主忠宗公は、わが子光宗の剣術指南役として、左馬助に三百石(三十貫文)を与えて召しかかえた。寛永二十年、五十一歳の時だった。

 左馬助が六十歳の慶安四年、江戸城の広場で、三代将軍徳川家光公に夢想願流の武芸を披露することになった。
 左馬助は、門人の阿部七左衛門道是を相手に組太刀二十番を立ちあい、名剣士としての腕前を存分にお見せした。夢想願流の極意は、打ちこんでくる相手の刀にとび乗り、足でけり落とす「足譚」(そくたん)の術だ。この日の左馬助の身の軽いこと天狗のようで、あの高い城の屋根にポンと乗ること三べん。袴のすそは小鳥の羽のように舞う。将軍はすっかり感心して「コウモリのようじゃ」とほめ、沢山のごほうびをくださった。

 左馬助は後に「蝙也斎」と名乗り七十五歳でなくなるまで、片平の道場で毎月刀を千回振って修業を続け、門人には熱心にけいこをつけてやった。

 蝙也斎の子孫が茂庭にお住まいで、夢想願流の巻物五巻をはじめいろんな古文書を今も大事に持っておられる。

   


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