情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市太白区緑ケ丘1丁目1−1
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

178 旧制二高生に慕われた 洞口(ほらぐち)せい

 仙台空襲で校舎が焼けた旧制二高は、戦後、秋保電鉄西多賀駅に近い三神峯(仙台幼年学校跡地)に移転。ここには明善寮が置かれており、青春の一大キャンパスとなりました。
 そして秋保電鉄で通学する多くの学生に人気になったのが、長町南町の、見るからに恰幅のいい洞口せいの大衆食堂だったのです。

 戦後の食物のない時代のこと。「出世払い」などといってお金も取らずに食事をさせたり何かにと面倒をみたせいは、「おばちゃん、おばちゃん」と呼ばれ、母親のように慕われたのである。
 学生たちの心の支えになっていた洞ロせいは、昭和三十一年(一九五六)一月八日、不客の人となった。青春時代を懐かしむ二高出身者によって、普門山瀧澤寺(緑ケ丘一丁目)本堂の前に洞口せいを偲ぶ「芳流」の碑が建てられている。

芳流の碑(緑ケ丘普門山瀧沢寺本堂前)
芳流の碑
(緑ケ丘普門山瀧沢寺本堂前)

 洞口せい氏は明治三十五年三月三日仙台市六郷藤塚大友与之助氏の次女として生れ、十八歳にして長町南町三十六番地洞口嘉助氏に嫁し、終生仙台を離れずその五十三年の生涯を深い親交と無私の愛情のうちに送られた人である。敗戦の傷痕深く混迷甚だしかった二高時代、故人はわれわれを愛児のごとく過した。故人のきびしい生活態度と豊かな愛情とは、若く貧しいわれわれに深い感銘と力とを与えた。「大衆のおばんちゃん」と呼んで、われわれは慈母のように故人を慕った。昭和三十一年一月八日、おばんちゃんは昇天された。忘却と孤絶の雪の夜、おばんちゃんは不意にこの世を去られた。そしてわれわれは残った。奪われたものの大きさと美しさとをひしひしと感じながら、故人の愛した菩提の丘にわれわれはこの碑を建てた。
昭和三十一年十月
第二高等学校尚志会有志一同
題字撰 萩庭三寿
題字書 有井凌雲
作 鈴木久夫

   


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