情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市太白区緑ケ丘1丁目1−1
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

177 碑に遺徳を残す 田中亀次郎(鹿野)

田中亀次郎(相原勝美氏提供)
田中亀次郎
(相原勝美氏提供)

 八木山の南斜面、鹿野の付近は欝蒼とした山林でした。この山林を開発し、鹿野橋を架けたり、地域の消防を整備したりしたのが、田中亀次郎です。普門山瀧澤寺(緑ケ丘一丁日)山門の前に「田中君頌徳碑」が立っています。

 田中(鶴川)亀次郎は東京の人である。明治四十二年(一九〇九)頃、越路一帯の山林で紛争が起こった。その紛争を見事な識見と手腕で解決したのが田中亀次郎である。
 亀次郎は越路一帯の山林を伐採して二ツ沢道路にレールを敷きトロッコで鹿野屋敷の製材所まで運び、それを用材にして貨車で東京方面に輸送するという事業を成功させた。また、亀次郎は冷害と貧困に喘いでいた土地の人々に温かい手を差し伸べ鹿野橋を架けたり、当時の金額で千円と手押し消防ポンプを旧長町小学校に寄付したり、近在の寺などの再興にも力を尽くした奇特な人である。
 瀧澤寺山門前の頌徳碑は「君名亀次郎本姓鶴川氏東京之人也・・・」の書き出しで始まっているが、次のように読み下すことができる。

田中君遺徳碑(緑ケ丘普門山瀧沢寺山門前)
田中君遺徳碑
(緑ケ丘普門山瀧沢寺山門前)


 君、名は亀次郎、姓は鶴川氏、東京の人、父源次郎といいその第二子として生まれ田中氏を嗣ぐ。幼くして悟りがよく、長じて才能を有す。意気は磊落、義に厚く事に臨みては小事にかかわらず邁進、はやくから実業界に入りその名が知れ渡る。東京の豪商林謙吉郎がそれを知るところとなり林氏の配下となる。明治四十二年、林氏購せし名取郡茂崎村越路の山林に紛争、闘争起き官民の調停止むなきにいたる。其の時、林氏これを憂い君を使わして其の事の解決にあたらせるため仙台に急行させ身をもって実践に当たらせ百方説得斡旋に当たる。其の利害争う者、君の之を憂う数々の説得に上下等しくその義に感じ紛争速やかに解決を見たり。その善後策として製材所を創設、鹿野の村民をして労役に服さしめ亡機の一村を感化弊風大いに改まる。村民皆公共事業に盡力せる君の徳行に感じ入る。君は寄付金千円と手押しポンプ一台を同村小学校に寄付す。或いは橋梁を架設し、廃寺その他を再興し其の善行偉大なる業績誠に少なからず。惜しむらくは、明治四十四年一月十日享年四十五歳にして病没せり。なんと惜しいかな。
 明治四十四年十月
 和田長三郎 黒澤辰三郎
 佐藤祐四郎 半澤 眞守
 守屋勝次郎 高田万之助
 成田 健治

   


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