情報提供: ディスカバーたいはく5号 | ![]() |
所在地: 仙台市太白区根岸町14 | |
連絡先: 太白区まちづくり推進協議会 | 電話: 022-247-1111 |
関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html |
162 仙台白菜 沼倉吉兵衛(ぬまくらきちべえ) |
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太白区は、藩政時代以来、仙台市民の暮らしにとって燃料供給基地(秋保の薪炭)であり、食料基地(中田の野菜、米)でした。その中田の野菜を代表するのが、明治時代、沼倉吉兵衛が開発し、中田地区で栽培されて全国的に有名になった仙台白菜です。 いまでも中田地区では白菜栽培が盛んで、仙台白菜は、漬物として、鍋物の具として食卓を飾っています。 |
沼倉吉兵衛は、安政六年登米町に生まれ、東京の駒場に学んだあと宮城農学校(現宮城県農業高等学校)や仙台市養種園(当時は伊達家養種園)に勤務して農業の発展に尽くしている。 明治二十八年(一八九五)日清戦争に従軍した第二師団の兵士が中国から結球白菜の種子を持ち帰り、宮城農学校に寄贈、教諭だった沼倉は二十年近い研究の末花粉交雑を防いだ採取に成功した。この間、松島湾の馬放島を借りた栽培では優良で大量の種子を採ることを可能にした。沼倉の種子は大正十一年(一九二二)岩沼の農家に初めて配布され翌年には東京市場に出荷、仙台白菜の評価を高めた。 この後、小牛田の渡辺採種場初代渡辺顕二が沼倉の種子に改良を加え、さらに優秀な種子を採ることに成功、寒冷地向けの松島白菜などを開発する。昭和初期仙台白菜は日本一の地位を獲得した。大正十三年(一九二四)に中田駅が開業しているが、中田地区で栽培された仙台白菜を出荷するためにつくられた駅であったと考えられる。 沼倉吉兵衛は昭和十八年八十四歳で没したが、昭和三十四年(一九五九)農学校の同窓会がその遺徳を讃えて兜塚の古墳上に胸像を建てた。碑文には次のように書かれている。 |
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恩師沼倉吉兵衛先生は本件農業教育や農界の恩人であります。安政六年登米に生まれ穏健誠実駒場農学校に学び明治十七年より宮城農学校晩年養種園等御奉職その四十六年間至誠教育に尽力されつつ農事改良農機具改善農産加工等に創意を加え更に仙台結球白菜の育成に成功ついに本県重要産物たらしめたなど功績特に顕著でありましたので文部大臣特賞大日本農会有功章その他知事団体等より数回表彰され昭和十八年逝去されました。先生を敬慕して私ども後進や子弟が建設した寿像は大東亜戦争で献納しましたのでここに新たに胸像を刻み御高徳を後世に伝えるものであります。 昭和三十四年十一月 宮城県農業高等学校 同窓会長 相沢庸治 清流 長井清人書 |
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