情報提供: ディスカバーたいはく2号 | ![]() |
所在地: 仙台市太白区中田 | |
連絡先: 太白区まちづくり推進協議会 | 電話: 022-247-1111 |
関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html |
119 中田(奥州街道) |
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中田・増田から郡山へ 古代には東街道が通る 東海道五十三次というのは、宿場の数のことである。奥州街道は、江戸から仙台まで六十九次。中田は、仙台城下から数えて、長町宿に次ぐ、二番目の宿駅だった。 奥州街道が整備されたのは、伊達政宗以降。それ以前は、高館を通る東街道が主幹道だったという。 東街道は、高館から栗木の渡しを通って西多賀へ、あるいは、高館から中田・長町・根岸を通り、宮沢渡しを越えて国分寺へ、などさまざまな説がある。最近ではそれらに加え、高館から増田を通り、郡山へ抜けたという説も取り上げられるようになった。 中田地区柳生にある相の瀬は、川幅が約三十メートル。深さ四十〜五十センチ程度で、歩いて渉れる。高館から当時の旅人は、このあたりで名取川を越え、中田を抜けて郡山方面へ向かったとも考えられる。いずれの説も、いまだ証明されてはいないが、郡山官衙の発見とともに、増田や中田から郡山へ向かうルートが、重視されるようになってきた。 川越に欠かせぬ宿場 宿屋や小間物屋が並ぶ 江戸時代に入り、伝馬制の採用とともに、主街道は東街道から奥州街道へと変わった。長町宿の開設とともに中田宿が誕生し、人や馬が中田の町を抜け、行き交うようになる。 長町・中田間は、およそ一里(四キロメートル)。さほど遠い距離ではないが、名取川の氾濫などのために川止めになることも多く、宿場が欠かせなかったらしい。 当時の中田宿は、長さ四町二十九間(約五百メートル)。街道に沿って宿屋や小間物屋が並ぶ小さな宿場だった。街道に面して間口がとられ、板戸を開けば、酒や醤油、小間物などが商えるようになっていたという。今でも町内には、そうした家屋のつくりがいくつか残り、宿場の面影を伝えている。 「長町や中田の馬を増田まで もの岩沼に槻ノ木の土手」 道中往来に唄われた長町や中田の宿だが、今も昔も往来のかなめであることに変わりはない。 |
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