情報提供: ディスカバーたいはく5号 | ![]() |
所在地: 仙台市太白区四郎丸字吹上6−3 | |
連絡先: 太白区まちづくり推進協議会 | 電話: 022-247-1111 |
関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html |
97 南画家 菅井梅関(すがいばいかん) |
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四郎丸小学校に菅井梅関の肖像画があります。仙台市博物館には、当時天下随一といわれた「古城朝鮮梅図」や「渓亭午翠図」などが収蔵されており、彼の代表的作品にふれることができます。 菅井梅関は、天明四年(一七八五)四郎丸字渡道で生まれた。早くから画才を発揮した梅関は家業の茶屋を弟に任せ、来仙中の画家・根本常南に師事し、南画家への道を踏み出した。 梅関の画歴は、常南と、仙台を代表する文人・南山古梁の感化を受けた仙台時代、郷里の先輩画家・東東洋のもとに身を寄せ、古画の鑑賞と模写に明け暮れた京都時代、そして江稼圃や江芸閣らと交わり中国画家の筆技を習得した長崎時代に分けられる。 この間、交わった文人、画家も数限りない。仙台時代には、京都の岸駒、江戸の司馬江漢など。京都行きの前には、江戸で谷文晁に入門している。長崎時代には、頼山陽や篠崎小竹、田能村竹田らとも交わっている。 |
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仙台時代の作品としては、南山に従って松島に遊んだ際に描いた「御島」などの景観画があるが、代表的な作品は群馬県・雙林寺所蔵の「涅槃図」である。京都時代の作品としては、文化十年(一八一三)梅関三十歳の時の「高士観瀑図」がある。長崎時代の作品としては「三界居録」などがあげられる。 およそ十年間長崎に滞在しているが、友人にも恵まれ、人生の中でもっとも満ち足りた頃であったようだ。 しかし、母の死、家業を継いだ弟の失明で帰郷。涌谷領主の伊達桂園に仕えるが、失明した弟家族を養う生活は苦しく、しかも大飢饉。そこに追い打ちをかけたのが、桂園、南山、東洋の相次ぐ死去。 借金に苦しむ梅関は、還暦を迎えて間もない天保十五年(一八四四)一月十一日六十二歳で没した。 |
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