情報提供: ディスカバーたいはく1号
 所在地: 仙台市太白区郡山5丁目10
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

93 郡山遺跡

space

丸瓦の模様は単弁の蓮華文
丸瓦の模様は単弁の蓮華文

石に囲まれた池は二期官衙のもの
石に囲まれた池は二期官衙のもの

space






 七世紀の半ば、大和朝廷の支配は、ほぼ全国に及んでいたが、東北だけは例外だった。当時、東北には、政府の支配に従わない蝦夷と呼ばれる人々がいた。
 郡山遺跡(郡山二〜六丁目)は、名取川と広瀬川に挟まれた広大な面積に広がる。大正二年に漆を入れた土器が発見され、その後、瓦の出土なども確認されたが、本格的な調査が始まったのは昭和五十四年から。以来、材木塀跡や大規模な建物跡などの遺構が相次いで発見され、古代の官衙(役所)跡であることが判明した。
 郡山遺跡の役所は、蝦夷政策と、律令制による支配を行うための役所として機能していた。その存在は、多賀城以前の役所跡として、全国の注目を集めることになった。


陸奥国の中枢施設
 これまでの調査の結果、郡山遺跡には、七世紀後半から八世紀の初めにかけて、二時期にわたる官衙が造られたことが分かっている。
 調査によると、七世紀後半に造られた最初の官衙は、南北六百メートル以上、東西三百メートル以上の広さに、基準線が真北から東へ三十〜四十度ふれた状態で、官衙院や倉庫群などが配置されており、統一的で大規模な造営が行われたことを示している。
 また、七世紀末には、それらは取り壊され、方四町(四二八メートル四方)の広さに真北を基準にして新たな官衙が造営された。
 二期目の官衙跡には寺院が付属して造営された。現在、郡山中学校の一階部分に、官舎跡など遺構の一部が復元・展示されている。
 多賀城が造営されるとともに、郡山の官衙はその役割を終えた。しかし、それまでは、陸奥国の拠点。古代の中枢施設が、太白区に存在していたことになる。

   

space

space

七世紀後半〜八世紀初頭のものとされる須恵器の数々(郡山遺跡)
七世紀後半〜八世紀初頭のものとされる須恵器の数々(郡山遺跡)

 





前の項目へ 次の項目へ