情報提供: ディスカバーたいはく5号
 所在地: 仙台市青葉区国分町3丁目7−1
 連絡先: 太白区まちづくり推進協議会
 関連ホームページ: http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/index.html

63 公選最初の仙台市長 岡崎栄松(おかざきえいまつ)

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市長時代の岡崎栄松
市長時代の岡崎栄松

駐留米軍と会談する岡崎市長(「思い出のアルバム仙台」より)
駐留米軍と会談する岡崎市長
(「思い出のアルバム仙台」より)

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 杜の都・仙台のシンボル、青葉通りをはじめとする広くて美しい並木道は、太平洋戦争直後の戦災復興計画によって基本が形成されたものです。そして、この復興計画に携わっていたのは、秋保の人・岡崎栄松でした。
 東京や神奈川で学校給食の基礎を築いたり、都市計画の長期ビジョンを持っていた岡崎の業績については、再評価の声もあがっています。

 岡崎栄松は秋保村長袋字町に生まれた。宮城師範学校から日本大学の法律学科に進み、卒業後は丸森小学校訓導・岩出山小学校長・桃生郡視学を経て大正五年県視学となった。
 同八年より官界に入り、横浜市役所を振出しに、東京市社会局保護課長・同福利課長・監査課長・下谷区長・大森区長・電灯部長を歴任した。その間昭和二年には財団法人日本栄養協会を組織し、学校給食の基礎づくりに取り組んだ。
 昭和十八年郷里に帰って宮城県商工経済会理事長に就任、次いで昭和二十一年六月公選による初の仙台市長に選ばれた。
 仙台は空襲によって一望廃墟と化していたが、四期に亘るその在職中再建・復興に渾身の心血を注いで、仙台市の特色を保持しながらも東北の首都としての近代都市の基礎を確立した。

 下谷で区長をしていた時には多くの芸術家(横山大観や玉堂など)と交わり、私財を投げうってその育成に努めた。また晩年は宮城教育大学の創設にも尽力し、開校記念として石灯篭の寄贈を受けている。
 昭和三十五年四月逝去、享年七十七歳。

 仙台市戦災復興記念館には氏の胸像が置かれている。

   


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